いちごレター

母が天寿をまっとうしました

2019年1月17日

私の母、大島房子が1月12日、亡くなりました。高崎に住む妹が、常日頃気にかけて夫婦そろってよく面倒をみてくれていました。

地域で行動をしていた私にショートメールが入り、「母が亡くなりました」・・・あまりにも突然の話で、ことばもでませんでした。

正月に入り、少し体調を崩していたようです。亡くなる4日前にはかかりつけの病院に私の妹と受診し、「顔にむくみがあるようだが、薬だしておきましょう」と言われ、帰宅し、その日も妹のマフラーを棒編みで編んでいたそうです。

その日以来、食欲が減り、胸騒ぎがした妹が当日朝早く母の家にいくと、いびきをかいて寝ていて、そのうちいびきがなくなったと思ったら、息が途絶えたようになり、救急車で日赤赤十字病院に搬送されました。

救急車のなかで、救急隊員の方が懸命に人口呼吸を施しましたが、病院に着くころにはすでに息を引き取っていたようです。死亡原因は「心不全」でした。

妹夫婦がお寺などを含めて対応してくれており、私が前橋に着いたときには、すでに遺体は、葬祭場である前橋メモリードホールの部屋に安置されていました。

妹が、出迎えてくれて、母と面会しました。むくみがとれて、やわらかな母の顔がそこにありました。妹にお礼をいい、この間の経過を聞いていくうちに、「母は天寿をまっとうした」のだと、少し安心しました。

母は5歳年下の妹とともに長年暮らしていました。2人とも未亡人。妹の息子がともに住み、いろいろ世話をやいてくれていました。実の妹とは、よくけんかもしていましたが、とても仲がよい姉妹で、この張り合いがあったからこそ、母がいままで元気でいられたのかもしれません。

2人ともいじっぱりで、介護保険の認定を受けてもらうだけでも、私の妹は難儀しました。やっと認定は受けましたが、トイレにはっていっても最後まで介護保険サービスは使うことはありませんでした。

頭はしっかりしていました。食べることが何より好きで、串カツ、ヒレカツ、カボチャの煮物、握りずし…大好物でした。

母が安置されていた部屋には、お風呂もキッチンも備えてあり、12日の晩は妹と共に、母の横で寝ました。翌日は長男である私の弟夫婦も千葉から駆けつけ、葬儀の打ち合わせ、家族葬で行うことをあらためて決めました。

火葬場との関係で、葬儀は16日しかできないとなり、母をそのまま、ホールにお願いして、私たちは一度自宅へ戻ることにしました。

15日、私は再び、前橋へ。3時頃にはホール会場の祭壇もすでに整えられ、子どもたち、孫たち、そして川崎市議会、共産党市議団からの供花もきれいに飾られました。祭壇は白と紫の花でつくっていただきました。

母を送るには、とてもすてきな祭壇になって、妹とともに、安心しました。15日夕方の納棺に際しては、2人の女性納棺師の方がそれはそれはていねいにやってくださいました。

私たち親族にもやさしく手ほどきをしてくださって、ほんとうに感激しました。最後に母は真綿の綿帽子をかぶり、白い真綿の花嫁衣裳を着せていただき、ぞうりまで真綿の草履をはかせてもらいました。

翌16日、母のこどもたち3人兄弟のそれぞれの家族が集まってきて、葬儀がとりおこなわれました。大島のお墓がある松竹院の住職とその子息がみえて、読経が行われ、葬儀につづき、初七日の法要も行われました。

その後、白い綿帽子をかぶり白い綿の花嫁衣裳を着た母は、たくさんの花に囲まれて残された家族と最後のお別れをして、天川大島にある火葬場に運ばれ荼毘に付されました。

焼かれた骨は骨壺に入りきれないほどたくさんありました。収骨をお手伝いしてくださった係りの方が「骨がとてもお丈夫だったのですね。だからこそ96歳近くまで生きられたのでしょう」と話してくれました。

どんなに歳をとっても、常に子どもたちのしあわせと健康を気遣ってくれた母でした。
その母は天寿を全うしました。

そして、5日間にわたりお世話になり、どの場面でも真心こめて、きもちよく対応してくださった前橋メモリードホールのみなさんに感謝いたします。