プロフィール

略歴

  • 1949年、群馬県生まれ。
  • 神奈川県立栄養短大卒。
  • 3人の子育てをしながら川崎医療生協などの栄養士17年。
  • 1987年川崎市議会議員初当選、以後8期連続当選。市議会健康福祉委員会(健康福祉局、病院局、消防局)委員。議会運営委員会委員。党市議団長。
  • 中原区上平間在住。 家族は夫、義母、長女。

日本共産党と私

〜市古さんはどうして日本共産党の議員なの?

私の生まれは、上毛三山からのからつ風で有名な群馬県前橋市です。洋服仕立て業を営む両親の長女として育ちました。小学校時代は、絵を描き、歌をうたい、お菓子づくりが大好きでした。

私が群馬の高校を卒業するとき、母の「これからは女性も自立しないと……」の話に励まされました。それでも仕送りを心配して地元を離れ学校へいくことに反対する父母を「負担かけないようにがんばるから」と説得して、東京の叔母をたよって上京し、神奈川県立栄養短大に入りました。そのなかで、栄養士になるなら、患者さんの心がわかり、患者さんとともに病気に立ち向かっていける栄養士にと、そんな思いで川崎セツルメント活動に参加しました。

当時の川崎は公害が本当にひどい状況でした。幸区古市場にアパートを借りましたが、洗濯物を取り込むことをうっかり忘れると、煤で黒ずんでしまうことがありました。街には民間の木賃アパートが建ち並び、その裏を流れるドブには蚊が飛びかっていました。貧血で苦しむ若いお母さんに何人も出会いました。

日本共産党との出会いはそんな時でした。「あの戦争に反対した党があった」ことを知り、「誠実に人生を生きたい」こう考えていた私と、女性の自立、平和と民主主義の旗をかかげて、どんな困難なときでも、一貫して筋を曲げずがんばっている日本共産党の方向が同じものに思えました。

そうは思っても迷いはありました。「戦争は絶対いや、まじめに働く人が安心して暮らせ、子どもが平和に育つ世の中であってほしい。しかし、誰がそれをやってくれるのか-」毎日、考えに考えて、「この道しかない」と入党しました。20歳のときでした。

病院の栄養士として職をえて働きつづけた17年間は、三人の子育て、食の安全、PTA活動など、すばらしい人々との出会いが、私を成長させてくれました。

育ちざかりの子どもが3人、下の子が3歳のとき、市会議員に立候補を要請されました。毎晩眠れずに悩みましたが、家族の支えと多くの方々、とくに同じ子育て中の仲間が「ふつうの母親の代表として私たちの声、要望を届けてほしい」こんなはげましを受けたことは私のこころの支えになりました。

あれから20数年がたちました。あいつぐ増税、負担増のなか、市民のくらしはほんとうにたいへんです。地方自治の第一の仕事は「住民の安全とくらしを守ること」です。

しかし、現実は大企業への支援ばかり熱心で、お年寄り、子どもたち、障がいを持つ方、市民のくらしを守ることはないがしろにされています。

私はこの川崎市、そして中原区が大好きです。何も知らなかった私を、そして子どもたちも育てていただき、はげまし勇気を与えてくださったみなさまに、少しでも恩返しができれば、少しでもお役にたてれば、この思いでいっぱいです。

日本共産党は、戦争に反対し、貧乏と差別をなくし、国民にうそをつかず、汚職に無縁な政党です。私は、この理念と政策の実現をめざす議員のひとりとして、がんばりたいと思います。